この記事では、沖縄ポップスを代表する名曲「島唄」について深く掘り下げていきます。
まず曲のタイトルについて考えていきましょう。
「シマ」という言葉は、琉球諸語や古い日本語で「村」という意味を持ちます。村落共同体が社会の基盤であった昔の琉球諸島では、それぞれの「シマ」特有の神歌や労作歌が人々の生活に根付いて行きました。 稲作などの農作や漁で 生計を立てていた沖縄の人々にとって自然との関わりは深く、それだけに少しの天候不良が生活を脅かすことになり兼ねませんでした。自然や神、先祖を敬って生きてきた人々は言葉を歌に乗せることで五穀豊穣や航路安全を祈ったり、地域の繋がりがより強いものになるよう願ったりしたのです。ウムイやクェーナと呼ばれる歌は、沖縄・奄美諸島の各地で長い間歌われ、一部は現代まで伝わっています。村落共同体の社会経済基盤の維持に大きな役割を果たしていたウムイやクェーナなどの歌は、琉球王朝時代に入ってオモロと呼ばれる王国の神歌の形成に深く関わっていきます。各地の豪族を首里に集め中央集権化を図ったかつての王国の政治的戦略も、オモロに離島や各地の村落の歌の影響が強く見られる要因でしょう。 オモロには、太陽神の成り代わりである琉球国王への讃歌や、王族・按司など影響力の大きい人物を称える内容の他に、航海安全を願う歌などがあります。沖縄民俗学の父と呼ばれる外間守善は、著書の中で「民衆レベル、村落レベルにあるウブ、オブ、オボ信仰(これらは神のまします聖域アフ、オーにつながる)が、貴族レベル、国家レベルにおけるオボツ・カグラ信仰に『押し上げられた』ということである。中国の道教の影響を受けた知識人、あるいは日本神道の影響を受けた知識人たちによって、王権強化の思想として育てられていったものだろう」と分析しています。オボツ・カグラは地上世界と対になって存在している天上界の事です。
その昔、琉歌は「ウタ」と呼ばれていました。短歌の五―七―五―七―七音に対し、琉歌は八―八―八―六音からなる定型歌謡です。江戸時代に大和から和歌が琉球に伝わったため、区別するために琉歌と呼ばれるようになったといいます。琉歌が短歌をはじめとする和歌と違う最大の点は、音楽に乗せて謡われるという点です。これは15世紀頃、大陸から三線の基となる三弦がもたらされ、琉球の上流階級の人々が新たな芸術・文学として発展させた経緯があるためのようです。「しまうた」という言葉は、現在では沖縄の歌を広義に表す言葉として使われています。
今度は、「島唄」の歌詞の内容を考えてみます。
曲中に歌われている デイゴはマメ科の落葉高木で、沖縄県の県花です。沖縄では3月から5月にかけて開花し、デイゴの花がたくさん咲くと、その年は台風の当たり年になると言われています。
1945年3月26日、アメリカ軍は慶良間諸島を征服し旧日本軍の司令部のあった沖縄本島への進撃を開始しました。のちに「鉄の暴風」と呼ばれる沖縄での戦闘は、たった3ヶ月で第二次世界大戦時における太平洋地域最悪の20万人以上もの犠牲者を出し、沖縄県民の4人に1人が亡くなりました。奄美・沖縄・先島諸島で連合国軍の上陸作戦に応戦した帝国陸軍第32軍を指揮した牛島満陸軍大将の自決により、沖縄戦は同年6月23日に終結したとされています。 戦後は、夥しい数の戦死者・行方不明者に加え、家や生活基盤を破壊されたり艦砲射撃や日米の銃撃戦に巻き込まれ怪我を負ったり食糧不足で苦しむ人が大勢いました。その後1972年に本土復帰するまで27年の間、沖縄はアメリカ軍の統治下におかれました。
毎年6月23日は慰霊の日、沖縄戦の戦没者を追悼する日です。
作者であるThe Boomの宮沢和史氏は、ひめゆり平和記念資料館を訪れた際に、ひめゆり学徒隊の生き残りの女性から沖縄戦の悲惨さを直に聞き衝撃を受け、集団自決の犠牲者への思いを「島唄」という歌にしました。曲中にある「ウージ」とは沖縄の言葉で「さとうきび」を表します。「ウージの下」は地下壕のことであり、暗く狭い壕の中、凄まじい状況で亡くなった人達への思いが歌われています。 「島唄」は「ドミファソシ」の5音音階である琉球音階を使って作られています。
発表直後、「島唄」は一部の沖縄の人達に受け入れられませんでした。宮沢氏は山梨県甲府市の出身で、沖縄県系人ではありません。「島唄」には沖縄の弦楽器・三線が伴奏に使われていますが、三線は元々琉球王朝時代に宮廷音楽を担う楽器として数百年に渡り大切にされ、琉球王国崩壊後も親から子の世代へと受け継がれる家宝として扱われて来ました。江戸時代から日本の政治的思惑に巻き込まれ様々な犠牲を払ってきた沖縄の人々にとって、大和の人が沖縄文化の象徴である三線と琉球音階を使った曲を披露していることがどんな風に見えていたでしょうか。The Boomは2014年に解散するまで日本国内外で精力的に音楽活動を続け、代表曲「島唄」は現在では沖縄で広く愛される名盤となり、歌三線の人気ナンバーとして県内・県外を問わず多くの人に親しまれています。
日米の両軍が戦争を沖縄にもたらした3月は、デイゴが咲き始める季節です。デイゴが咲き乱れる春から初夏にかけて、沖縄では多くの血が流れました。「島唄」では、真紅の花を戦で命を落とした人々に見立てて、美しくも悲しい弔いの言葉が紡がれていきます。
今年で沖縄戦から76年が経ちますが、多くの沖縄の人々は戦争は終結していないと感じています。未だ7割以上の在日米軍基地が、国土のわずか0.6%しか占めない沖縄県に集中しています。日米政府は、県民の強い反対にも拘わらずアメリカ海兵隊の新基地建設を名護市辺野古湾で推し進めています。有害化学物質が基地から漏れても自治体や住民には知らされなかったり、返還された土地が危険物質で汚染されていたりすることが日常茶飯事です。アメリカ軍関係者による殺人事件や性犯罪、傷害事件や交通事故がある度に地元の人々は憤り、江戸幕府・明治政府・現日本政府によってつけられた傷跡が押し広げられるのです。 沖縄と日本の関係は、社会・経済・政治的要因が複雑に絡み合い、予期せぬ分裂や軋轢を生み出したり新たな障害を作り出したりしています。
戦没者を弔う鎮魂歌として生み出された「島唄」は、そんな状況が今も続く沖縄で、戦後終わらない基地問題や貧困による政治的・社会的障壁にぶつかる人々に寄り添います。沖縄戦が終わり、希望を持って本土復帰した沖縄の平和への願いは果たされているのかーそういった疑問を、「島唄」は現在進行形のメッセージとして私達に問いかけてきます。
サザンウェーブは今夏、地元バンクーバー市で毎年開催される日系イベント・パウエル祭りにて、「島唄」を披露します。現在も猛威をふるい続けるコロナウイルスにより犠牲になった方々、世界各地で続く紛争やヘイト・クライムに巻き込まれ命を落とした方々への祈り、平和への願いを、「島唄」の調べに乗せ届けます。詳しくはこちらから。オンラインで世界のどこからでもご覧いただけます。一同心を込めて歌いますのでどうぞご視聴ください。
島唄
作詞・作曲:宮沢和史
でいごの花が咲き 風を呼び 嵐が来た
でいごが咲き乱れ 風を呼び 嵐が来た くり返す悲しみは島渡る波のよう
ウージの森で あなたと出会い ウージの下で千代にさよなら
島唄よ 風に乗り 鳥とともに 海を渡れ 島唄よ風に乗り届けておくれ私の涙
でいごの花も散り さざ波がゆれるだけ ささやかな幸せはうたかたの波の花
ウージの森で 歌った友よ ウージの下で八千代の別れ
島唄よ 風に乗り 鳥とともに 海を渡れ 島唄よ風に乗り届けておくれ私の愛を
海よ 宇宙よ 神よ いのちよ このまま永遠に夕凪を
島唄よ 風に乗り 鳥とともに 海を渡れ 島唄よ風に乗り届けておくれ私の涙
島唄よ風に乗り鳥とともに海を渡れ 島唄よ風に乗り届けておくれ私の愛を
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参考書籍:「南島の神歌ーおもろさうしー」外間守善著
沖縄慰霊の日、戦争で犠牲になった方々に想いを馳せる日。そして島唄は聞くたびに涙がでてしまう。素敵な歌と演奏、島唄の生み出された背景もどうもありがとう!